無題

蓮實重彦『映画狂人シネマ事典』

2001年10月30日初版発行

 

前回の続き

 

映画小辞典(か行〜た行)

 

・階段

映画にあって、階段は危険な場所である。実際、何人の男女が階段を転げ落ちたことか。当然のことながら、彼らは命を落としたり、決定的な傷を負ったり、流産したりする。もちろん、幸福で楽天的な階段が存在する一方で、映画における階段はどうしてこうまでも不吉でどこかしら不気味なのだろうか。画面の中で人物が垂直軸に沿って上下する事には何がしかの意味があり、優れた作家たちはその意味を最大限活用せずにはいられない。ヒッチコックの作品は、階段の存在と、それに向けられたキャメラの信じ難い技法によって可能となった映画的事件である。

 

・鏡

キャメラは鏡を正面から見つめることができない。スクリーン上のキャメラの絶対的な不在が映画的虚構の前提で、鏡は映画にあってはたえず不自然な場所に位置しなければならない。

 

・傘

雨が降るから傘をさすのではない。映画作家たちは、傘を撮りたいから雨を降らせるのだ。

 

・髪

女性の髪は何よりもまず色彩によって性的な興奮ぶりを表現する。色彩映画は、一時期赤毛の魅力を強調したものの、黒白映画が持っていた髪の色彩的記号論の豊かさを永遠に失わせてしまった。

 

・奇襲

映画における奇襲は必ずしも面白くない。面白い奇襲とは、誰かが何かに気付いている時に起こるものだ。それは言葉の矛盾である。面白いのは、奇襲の予感をいかに形成するかという作者の才能であり、奇襲を企てる当事者の作戦なのではない。

 

・キス

映画の誕生と共にキスシーンはスクリーンに登場する。史上最高のキスシーンといわれるヒッチコックの『汚名』の、バーグマンとケイリー・グラントの振る舞いを見ていると、映画がキスを撮っているというより、キスが映画のために発見された愛情表現だといった印象を持つ。

 

・自転車

ヌーヴェル・ヴァーグの定義の一つに、自転車への偏愛が挙げられないだろうか。自転車の魅力は全身を風にさらす点にある。運転者はたえず風景と共にある。自転車は、映画にゆるやかな運動感を回復する点でも貴重な乗り物である。

 

・立ち止まる

映画で人が立ち止まるのは、きまって振り返るためだ。では、何故振り返るのか。顔に落ちかかる光線を変える目的である。グリフィスは、直射日光にさらされる女性の顔が、映画的に艶を欠いたものであることを体験によって学んだ。必ずしも彼の発明ではないクローズアップやカットバックが彼の創意による発明のごとくいわれているのは、振り返った顔にあたる光線を繊細に組織する術を彼が知っていだからにほかならない。

 

・電線

電線は荒野に伸びる文明の糸である。これが切断されると、西武の街は陸の孤島となる。電線の象徴する辺境性が、現代の映画でも活用されている点は興味深く、ヴェンダースの『パリ、テキサス』の主人公は電線に沿って砂漠を放浪し、エリセの『ミツバチのささやき』の少女たちは線路の脇の電線の下に立ち、人民戦争直後のスペインの村を陸の孤島としての西部の辺境に仕立て上げていた。

 

・扉

秘密の扉という主題は、映画以外の領域にも存在し、また、それに惹きつけられるのは女性とは限らない。だが、『レベッカ』のヒッチコックが見事に示しているごとく、映画でなければ描けない扉というものがある。それは、背後で不意に閉ざされる扉の音の衝撃である。扉は、映画が音を持つことでますます豊かな表情を帯びるにいたった装置なのである。

無題

蓮實重彦『映画狂人シネマ事典』

2001年10月30日初版発行

 

■映画の本について

映画をめぐる書物のほとんどは面白くない。映画語でないから。では、映画語とは何か。それは、あらゆる人にとっての外国語である。外国語としての映画語に方法は存在しない。映画語を習得する理由は、母国語というものがいかにも鬱陶しい環境であるからで、また、「母国語だけに自足し得る人間は、実は、日々緩慢な死を生きているようなものなのである。」。

 

『映画術 ヒッチコック/トリュフォー』『監督 小津安二郎』『ゴダール映画史』などが映画語の書籍です。

 

 

 

■映画小辞典(あ行)

・愛する

グリフィスのクローズアップの発明が、映画が愛を描く技法を体得する以前に愛を知ってしまった理由である。しかし、クローズアップに逃げる窮余の一策には愛は無く、心理的説明を誇張するクローズアップは映画を堕落させた。

 

アスファルト

雨に濡れていなければならず、雨が降らぬのであれば、水がまかれていなければならない。そして、あたりには夜の闇が支配していなければならない。

 

・椅子

椅子は動かないので映画的な表情に乏しいが、ロベール・ブレッソンが正気を回復させた。椅子は背の向き一つで雰囲気を表現する。

 

・一軒家

ぽつんと立っている一軒家を遥かな高みから見下ろすというイメージが映画作家の才能を決定する。空間の広がりを際立たせる孤絶感と慎み深く自然に抗う健気な人間的な試み。一軒家の俯瞰シーンはグリフィス以来映画の貴重な資産の一つであり、映画史の最も正統的なイメージである。

 

・追っかけ

必ずしも追跡を意味せず、必要なのは走ることではなく、何かが理不尽に消失することである。不意に視界から消滅してしまったものを探し当て、元の場所におさめる目的のために、時間と空間を縮小しなければならいという意志のみが「追っかけ」を生み出す。「追っかけ」は時間、空間の一つがあればそれで充分である。「追っかけ」に超高速の乗り物が必要とされない理由である。

 

か行以降は次回以降です。

 

 

 

■その他

平成10年度入学式における蓮實重彦総長の式辞

http://www.t-shinpo.com/741shiki.html

 

無題

蓮實重彦『映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史』について

 

 

 

前書きにかえて

戦争の世紀とされる二十世紀というものの考察に際し、映画を中心に考察すること。将来の人々に、これが二十世紀といえるものの一つが「映画」だが、人類は映画の役割と機能を十分に理解していない。為政者がそれらに自覚的でありながら、大衆の意識は希薄である。我々は政治家たちが活用した以上の何かを映画に見出すべきである。

 

 

 

第1章ー映画における国籍ー

「映画には国境はない」という確信。リメイクにおける舞台変更など文脈の置き換えの可能さ、や監督とキャストの国籍の差異など、映画の国籍は脆弱。また、翻案による作品の頒布。このような流通の仕方≒複製を、否定すること以上に、それらを新たに思考すべき生の条件として現実に抱え込んだことに人類は無頓着である。

複製であるが故の迫力が映画に存在し、それは類似を否定することのない差異の迫力である。モルフォロジーとテマティスムの一貫性は、細部の置き換えで一変する。つまり、模倣が差異を生産する。映画は生産方式にこの差異を導入したために無視することが出来ない。大量消費社会の二十世紀の文化の考察には、差異への感性が不可欠である。

 

 

 

第2章ー映画における演出ー

「映画とはごく僅かなもので成立するものだ」という原則。「何かが目の前で起こっている。それが映画本来の姿なのです。その後、映画は物語を持ち始めましたが、D・W・グリフィスは「映画とは、女と銃である」といいました。」。「銃」の代わりに他の物を導入し、ごく僅かなものの組み合わせで映画は成立可能である。

題材の面で、映画は単純な要素で成立しているが、それを視覚化するためのものも単純で、それは「ショット(=ひとつの画面が始まってから終わるまでの持続)」で、ショットの組み合わせで映画は成立する。

 

 

 

第3章ー映画における歴史ー

ゴダールの『映画史』について。

「断片」というキーワードについてはまたの機会とさせていただきます。

 

 

参考文献

蓮實重彦『映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史』2004年8月20日初版第1刷発行

初心表明/所信表明

何故以前のブログを閉鎖し、こちらのブログを新規開設したかというと、それは発信したいという衝動に他ならないのですが、そのついでに過去を断ち切った、その程度のことです。

 

このブログはご存知の通り、映画を中心に私の考え方を共有していく目的ですので、まず最初に現時点の私のそれの最低限の姿勢を記述しなければならないでしょう。また、それらにプラスして、発信することーブログというフィールドでは「書くこと」ーについてもです。以下、記述します。

 

・映画を観ることについて

恐らく、映画は自宅で観ても映画館で観ても一緒です。環境は我々の問題であって、映画の問題ではないです。しかし、その前提を以ってして、私は映画館で映画を観ます。

また、映画でどこに注目するかですが、それは「画面」です。映画は可視のメディアですから、まず「画面」に注目するべきです。しかしながら「画面」を「観ること」は困難です。この困難さについてはまたの機会にさせていただきます。

 

・映画館でどのような作品を観るかについて

基本的に旧作と新作を半々ずつくらいです。私としては旧作を追い掛けたい気持ちですが、映画のいうコンテンツの最先端はシネコンでかかる新作です。それらから目を背け、映画について発信することは幾許か不誠実な気持ちになります。

 

・映画批評について

「批評」とは何かや現代の「批評」の役割などは疎いので割愛させていただきたいのですが、世間一般的に映画批評家とされる人々の「批評」はカスです。恐らく、「批評」は馴れ合いが発生し易い分野です。職業としての批評家は馴れ合い上手です。

 

・その他

私が唯一信頼する映画批評家蓮實重彦です。蓮實重彦のテキストと我々映画ファンは対峙すべきです。このブログが蓮實重彦のテキストからの影響を回避することは不可能です。蓮實重彦のコピーになるかもしれませんが、蓮實重彦のコピーになることが出来たら、それは並々ならぬ功績でしょう。

蓮實重彦に興味はあるが時間は無いという読者に、このブログは蓮實重彦の言説を簡潔にまとめ伝達することが出来れば幸いです。

 

4/26追記:蓮實重彦以外に信頼出来る批評家がいるかもしれない。

 

 

 

私とて、映画を観始めてから若干です。読者の方々と切磋琢磨させていただきたいです。

大学生としてのブログについての著者のおことば

映画やその周辺についての自分の気持ちや態度を、きっかけや参考文献と共に表明していきます。順序や頻度はバラバラです。映画ファンはもちろん、それ以外の人にとっても、そして、私にとっても、このブログが「映画」というものを考え直すきっかけになれば幸いです。