無題

蓮實重彦『映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史』について

 

 

 

前書きにかえて

戦争の世紀とされる二十世紀というものの考察に際し、映画を中心に考察すること。将来の人々に、これが二十世紀といえるものの一つが「映画」だが、人類は映画の役割と機能を十分に理解していない。為政者がそれらに自覚的でありながら、大衆の意識は希薄である。我々は政治家たちが活用した以上の何かを映画に見出すべきである。

 

 

 

第1章ー映画における国籍ー

「映画には国境はない」という確信。リメイクにおける舞台変更など文脈の置き換えの可能さ、や監督とキャストの国籍の差異など、映画の国籍は脆弱。また、翻案による作品の頒布。このような流通の仕方≒複製を、否定すること以上に、それらを新たに思考すべき生の条件として現実に抱え込んだことに人類は無頓着である。

複製であるが故の迫力が映画に存在し、それは類似を否定することのない差異の迫力である。モルフォロジーとテマティスムの一貫性は、細部の置き換えで一変する。つまり、模倣が差異を生産する。映画は生産方式にこの差異を導入したために無視することが出来ない。大量消費社会の二十世紀の文化の考察には、差異への感性が不可欠である。

 

 

 

第2章ー映画における演出ー

「映画とはごく僅かなもので成立するものだ」という原則。「何かが目の前で起こっている。それが映画本来の姿なのです。その後、映画は物語を持ち始めましたが、D・W・グリフィスは「映画とは、女と銃である」といいました。」。「銃」の代わりに他の物を導入し、ごく僅かなものの組み合わせで映画は成立可能である。

題材の面で、映画は単純な要素で成立しているが、それを視覚化するためのものも単純で、それは「ショット(=ひとつの画面が始まってから終わるまでの持続)」で、ショットの組み合わせで映画は成立する。

 

 

 

第3章ー映画における歴史ー

ゴダールの『映画史』について。

「断片」というキーワードについてはまたの機会とさせていただきます。

 

 

参考文献

蓮實重彦『映画への不実なる誘い 国籍・演出・歴史』2004年8月20日初版第1刷発行